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人権・差別問題について

ホームページ掲載にあたって

農学研究科・農学部構成員の皆様

2001年11月20日
農学研究科長

「差別問題に対する認識と姿勢-討議のために-」のホームページへの掲載について

昨年度農学部で発生した差別落書き問題への対処を通じて、いわゆる差別問題に対する啓発の場をどう設けるかに腐心してきました。農学研究科・農学部として啓発の場を設定することは、昨年度の事件に立ち会っていただいた被差別部落関係団体からの強い要請でもありました。

差別問題に簡単なテキストはなく、まずは研究科教授会自身が意識を喚起しつつ、ひろく農学研究科・農学部の構成員が各々の思いを吐露し重ねあいながら認識を深めていくことが必要であろうと判断し、この旨農学研究科・農学部人権問題対策委員会にお諮りしました。その結果、手始めに同委員会委員の野田公夫教授に「差別問題に対する認識と姿勢-討議のために-」と題する一つの討議素材を提供していただくことになりました。委員の皆様に読んでいただきましたところ、研究科教授会の皆様にも是非読んでいただき差別についてお考えいただきたいということになり、11月8日教授会にて配布しました。さらに、農学研究科・農学部構成員向けへのホームページへ掲載することの承認を得ました。

ひとくちに「差別」といっても、それ自体が極めて多様で必ずしも一緒に議論できるものではありませんし、私たちの受けとめ方もまた様々です。したがって、本文書は決して「差別」問題に対する判断基準を示すためのものではなく、議論の口火をきるための一つの材料としてご理解いただければ幸です。

お読みいただき、ご自分の思い、お考え、ご意見等を人権問題対策委員会にお寄せください。

差別問題に対する認識と姿勢-討議のために-

差別問題に対する認識と姿勢-討議のために-

2001年9月27日

Ⅰ.差別問題に対する基本姿勢およびその取り上げ方

『社会学小辞典』(有斐閣)によれば、差別とは次のようなものである。「特定の個人や集団に対して、彼らに付随する固有な特徴を考慮するとしないとにかかわらず、彼らを異質な者として扱い、彼らが望んでいる平等待遇を拒否する行動。すなわち差別は、自然的ないし社会的カテゴリーに根拠をおく区別を前提としてなされる一切の行為である。差別には、公然たる公式的侮辱(法律での不平等承認など)と、私的個人によって行われる侮辱的行為の形態がある。」

  1. ところで、差別問題の具体的なあり方は、時と場所において極めて多様であり意味を変ずる。したがって、「差別とは何か」という一般的な問いとともに、「現代社会における差別とは何か」「今の社会をより豊かにするために解消すべき差別とは何か」という視点から、より具体的に問題をたてるとことが不可欠である。
  2. 差別問題に取り組むということに対し、「痛くも無い腹を探られる」という類の戸惑いや「行動の監視や過度の規制」などというネガティブな印象をもたれることがままあるが、そうではなく「よりよく生きるための互いの理解と尊重を育む能力と関係を培い、私たち自身を豊かにするもの」である、という本来の意味を理解することが必要である。
  3. 今世紀にたいして「多様性の豊かさが花開く世紀」という期待が述べられているが、多様性が本当に豊かさに結びつくためには、多様なものが相互に理解し尊重し合える関係をつくりあげること、すなわち差別問題の克服が前提となる。この意味で差別解消への取り組みは、現代社会の豊かさを現実のものとする大前提である。このようなより大きな枠組み、すなわち近未来の豊かさを担保する必要条件として差別解消のとりくみを位置付けることが必要であろう。
  4. 差別というものは、被害者と加害者において、全く非対称的な意味におかれた現実である。加害者が無自覚であることも多く、それどころか指摘されてもなお自覚できないことも珍しくはない。したがって、とりわけ弱者よりは強者の側が、少数者よりは多数者の側が、差別問題の深刻さを自覚的・主体的に考え、その解消を目的意識的に追求する姿勢をもつことが肝要である。

Ⅱ.差別問題についての認識 -その現代的・日本的特質および大学における差別問題-

「差別」という社会問題の現代的および日本的な特質を考えるために、以下簡単な整理をしておきたい。

1)現代社会と差別問題

近代以前の社会にあっては、まず何よりも、多数の人々が権利の対象(人間であること)から明示的に除外されていた。そして人々は通常、身分的にも地理的にも分断されており、また家族や種々の社会集団によって深く囲い込まれてもいた。このような社会における「差別」は、その意味も形態も現代社会とは全く異なるものである。

これに対して近代社会(近代国民国家)は、理念のうえでは国家の内部で「国民としての平等」を実現することを価値規範とした。しかし、如何に理念のうえで自由・平等をうたったところで、実態が簡単に伴うわけではない。したがって、理念(国民としての平等)と現実の間を埋めるための法的・制度的な整備を求める運動が、世界各地でおこることとなった。近代国家の理念に照らした種々の「差別」解消要求が、近代社会運動の中軸的内容をなすこととなったのである。また、一方で植民地支配や戦争に対する反省が重ねられるにつれ、他方で種々の人的・物的あるいは文化的な交流が深まっていくにつれ、国家や国民の壁を超えたより普遍的な差別が問題にされ、より普遍的な自由や平等(相互承認)があわせ希求されるに至った。これが現代という時代の特色である。

現代における差別問題は、法や制度の問題とともに、新たに社会(私たち自身)のあり方という問題を大きくクローズアップしてきている。たとえ法形式的あるいは制度的な平等が達成されたにしても、深く社会に植え付けられた誤解や偏見が、それを空文化させてしまうような現象が随所で見出されることとなったからである。誰もが社会の主人公であるべき時代に、私たちの社会がそれを歪める幾多の障害を依然として克服できておらず、場合によってはその拡大すらみられるという事実が明瞭になってきたのである。

いわゆる成熟社会と呼ばれる段階に到達した社会において、現在最も普遍的にその解消が重要課題となっている差別に、人種・民族差別、性差別、障害者差別などがある。いずれも、現代社会の達成した法形式的な平等という視点から現実社会を見つめたときに、あらためて自覚され顕在化することとなった最も普遍的な差別現象である。大まかにいえば、これらのうち理論的にも実践的にも最も目に見える成果を収めつつあるのが性差別の領域であり、他方、近年その必要が声高に叫ばれるようになったが依然として実効ある改善をみせていないのが(とくに日本における)障害者差別の領域であるといえよう。これに対し人種・民族差別は、特異な位置にある。それは、近代国民国家の成立と同時に顕在化、すなわち近代とともに社会問題化したという長い歴史をもちながら、近年の国民国家の統御能力喪失と世界的不況による利害対立の激化に加え、何よりも「人種・民族」なるカテゴリー自体がフィクションであることが対処を複雑で困難なものにし、未だ確かな解決方向を見い出せぬまま、むしろ悪化の傾向すら見せているからである。

2)日本固有の差別問題

日本社会固有の差別問題は、部落差別や在日朝鮮人差別あるいはアイヌ差別をはじめ無数にあるが、ここでは部落差別と在日朝鮮人差別についてのみ付言する。

いわゆる部落差別は、現代日本社会における最も深刻で異常な差別である。被差別部落の形成過程には諸説があるにせよ、現代日本社会の差別意識・差別構造を依然として貫く中心線の位置を占める。それは、次のような意味においてである。

いわゆる部落差別は、他の差別に比べても、極めて異様な性格を帯びている。性差別も人種・民族差別も障害者差別も、それ自身が多分にフィクションに彩られているにせよ、基本的には外見上判別可能な種々の区別(性、身体・身体能力、言語・文化・生活習慣など)を根拠としているが、部落差別はこれとは全く異なる。いわゆる解放令によって身分的呪縛と土地緊迫が解放されて以降、ビジブルな(すなわち顕在化した)指標は一切消滅した。どんな物差しで見ても、ある人が被差別部落民であるかどうかを区別することなど全く不可能である。一切判別不能であるものをそのままで放置せず、残念ながらわれわれの社会は、今もなお唯一の痕跡をとどめる「戸籍」の力を借りることまでして「部落」出身者であるか否かを洗い出そうとする。ここに、日本の部落差別の異常さがある。かかる醜悪さが集中的に発現されるのは、通常結婚と就職においてである。「部落」と呼ばれる地域の出身であるという、このたった一つの事実によって、人生(就職と結婚)を決定的に左右する極端な差別を受けるのである。このような、なんとも奇怪な部落問題をどのように考え、それに対してどのように対応できるかは、私たちの人権感覚よりひろく言えば日本社会の成熟度が問われる重大問題である。

いわゆる在日朝鮮人問題は、かつて植民地として支配した相手国の人たちであるという点でも、またその一部は戦時体制期の労働力不足を埋めるための強制連行の結果であるという点でも、私たちの責任が極めて直截な政治社会問題である。さらに、日本の植民地政策は、皇民化政策と称される強力な「同化」を内容としていた点で、「異質」であることを前提とする欧米諸国のそれとは大きく異なっている。「同化」とは、「する」側からみれば「善意の発露」という理解も可能であるが、「される」側にとっては、「自己喪失」という究極の支配となる。在日朝鮮人をめぐる現在の問題の枢要点も、アイデンティティの確保と国民的規制にかかわる領域にあり、内容上も私たちの前史(日本の植民地支配とその性格)に直結している。

3)大学における差別問題

一見何の問題もないニュートラルな言動が、圧倒的に力関係に差のある人間関係のなかで用いられた時には、深刻なハラスメントとなる場合がある。このような歴然とした力の差を伴う人間関係を、社会科学の用語で権力関係とよぶことがある。

大学においても、私たちは種々の権力関係のなかに身を置いている。教授・助教授・講師・助手という職階それ自体、教員(とくに教授)と院生・学生との関係、あるいは教員(とくに教授)と彼らが雇用したパート職員などとの関係は、歴然とした権力関係の一つであるが、自治と自由をモットーにしてきた大学は、建て前のうえでは、このような意味での権力関係とは無縁の社会であるとされてきた。近年の造語であるアカデミック・ハラスメントとは、以上のような大学社会のもつ建て前と実態との乖離を問題にしようとする意図が込められたものであろう。真理探究の場を標榜する大学において種々の差別があるということは、今社会が最も注目する社会問題のひとつである。とくに指導・被指導すなわち「教育」という関係が、しばしばセクシュアル・ハラスメントの場になっていたことが明らかになりつつある現状は、大学人として厳しく受け止めざるをえない。

大学においては、とくに教員の場合、専門性という強い壁に遮られた狭い縦形社会を形成している。企業等では、フレキシブルな配置替が有力な労務管理の手法になっているが、そのような方法によるハラスメント問題の緩和・解消は困難であり、有効な対処をなしえないまま深刻化する場合が多い。また、教師・学生関係は、成績評価や単位(卒業・入学)認定および就職斡旋等を通じて、学生が社会的自立をする以前の段階において直接的な影響をもっている。また「教育」という行為自体が、人格や価値観の形成すなわち広い意味におけるモラルの領域と重なっている。これらの点で、他の権力関係に比べてもよりナイーブで包括的(全人的)な影響力をもったものである。大学人は、大学社会(大学における人間関係)のもつこれらの特殊性に、十分配慮することが必要であろう。

4)「平等」ということについて

「差別を解消し平等な社会を築く」という場合の、「平等」について付言しておきたい。「機会の平等」と「結果の平等」という言葉がある。前者の一方的な強調が市場原理の下での競争に無上の価値をおくアメリカ型民主主義の特色であるとすれば、後者の一義的強調は競争の抑制と配分による平等を旨とする社会主義型民主主義の特色である。いずれにも他では代替できない固有の機能があり、差別解消のためのアクション・プログラムは、差別現象の性格に応じて両者を最も有効なかたちで組み合わせて対応することになるであろう。しかし同時に、単なる「機会」でも「結果」でもなくいわばその「過程」…要するに「生きがい」「やりがい」「誇り」などの要素に直接つながるものとして、「過程としての平等」という側面を考慮することが今後一層重要になると思われる。これと裏腹の留意点であるが、「平等」ということがあたかも「画一化」の強制であるかのような理解があるとすれば、それは間違いである。「画一化」は、実態のもつ多様性を切り捨てるという点でそれ自身が差別の一形態であり、特定の状況においてのみ有効な差別解消策であるにすぎない。現代において「差別解消」もしくは「平等化」ということを考える時、そこには「人間本来の多様性」に対する深い洞察があるべきであり、何よりも「多様な人々が、多様なままで、多様なものとして尊重される」という精神に裏付けられたものであることが必要であろう。

Ⅲ.差別問題解消に向けての大学の役割

差別問題を解消するために必要なことは、1.差別によって不平等が固定化されないための、あるいは差別の結果もたらされた現実的不平等を是正するための種々の制度的・政策的措置であり、2.差別とは何かを伝え差別意識を変えるための種々の啓蒙的・啓発的措置であり、3.差別事件が発生した場合被害者の人権が尊重されかつ自尊心が守られるような問題処理法の習熟とかかる問題を取り扱う組織や制度の整備などである。

この三つはいずれも、社会一般と同様大学においても必要なものであるが、なかでも、高等教育と研究を担当する大学が積極的に果たすべき最大の役割は第二の点、すなわち差別解消につながる啓蒙・啓発の領域にあると考えられる。専門教育のみならず本格的な教養教育に取り組むことの必要が説かれてすでに久しいが、教授されるべき教養の基本的な柱は、何よりも深く豊かな人間理解…先述のように、その多様性の承認と尊重および畏敬…におかれるべきであろう。

人間にたいする深い洞察に裏付けられた教育を提供するとともに、社会にたいしてもヒューマンな「知のありかた」を多様に発信することは、これからの大学が社会に対して果たすべき重要な内容であろう。

また、通常差別意識はいくつかの「根拠」をもっており、それによって再生産されているが、深刻なことはそれらの「根拠」がある歴史段階において人為的・社会的につくられたフィクションであることである。したがって、何らかの区別に基づいて人を差別すること自体の愚かさを説くこと(上述の、人間理解の提示)のみならず、それらの「根拠」の虚偽性を具体的に明らかにしていくことがぜひとも重要である。これらのフィクションは、しばしば「自明なもの」として強固な社会常識を形成しており、簡単な反論で克服されるようなものではない。差別を支えるフィクションの成り立ちを歴史的・科学的に解明し、人々の誤解をわかりやすく社会に提示することもまた、大学の大きな役割であり責任であろう。

ところで、農学は「生命系の総合科学」といわれ、京大農学研究科は「生命・食料・環境」の三大テーマを掲げている。人の生活にとってもっとも本源的な領域を広範囲に扱う農学は、「自然を人間との関係において」あるいは「人間を自然との関連において」洞察しうる中軸的な学問である。このような視野をもった「知」が広く発信されていくならば、それは「社会のつくったフィクション」を緩和させ揺らがせ、「自然と人間の本来のあり方」に目をむけさせる有力な力となろう。この点で、農学が内在的にもつ学問的射程は極めて長く、その意味はより本源的なものではないかと思われるのである。

(人権問題対策委員会委員 野田公夫)

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